職員会館は文字通り鴨川の右岸に接しており、窓の下に流れが見えます。今年5月に「出版研究集会in関西」がここで開催され、参加したネッツのメンバーを中心に、場所が良く料金も高くないのでフェスタの会場に定めました。出版労連京都地協が京都総評に加盟しており、そこで京都市職労と交流があるのも利となっています。
ここには、幕末までは五摂家の筆頭、近衛家の「河原御殿」がありました。遺っている図面には鴨川へおりる道、舟付場が示されており、舟運が大切だった往時が偲ばれます。明治になって政府の指導者、木戸孝允が買い取って改築し、京都の居所としました。木戸の臨終の地で明治天皇が見舞った病床の部屋がある2階建ての「離れ」が職員会館の隣りにあり、指定遺蹟になっています。この「離れ」と鴨川のあいだはイチョウ、モミジなどの草木がある庭で、会館は静かなたたずまいになっています。また、跡取りの木戸忠太郎が蒐集した数万箇に及ぶダルマを収めた「達磨堂」も会館の前にあります。「離れ」も「達磨堂」も申し出れば見学できます。
木戸邸の土地は西側は土手町通までで広く、テニスコートもありました。現在の職員会館の場所は庭の一部だったと思われます。西側の部分は、旅館の「お宿いしちょう」と木戸の号をとった「石長松菊園」となっています。
大正時代になり、国語学者の新村出が、実父の関口隆吉(地方官で木戸の生まれ育った地である萩の乱の時に山口県令、筆者の曾祖父)が木戸孝允と親しかった縁で住み、子どもたちはすぐ南の銅駝(どうだ)小学校(現在は銅駝美術工芸高校)に通っていました。そして大正12年、新村出は木戸家から母屋を貰い受けて北区の小山中溝町にそのまま移築し、現在は新村出記念財団重山文庫となっています。
(文・写真/新村恭、編集・校正・執筆)